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愛するということ④

②愛の対象

人々はどうすれば愛されるかばかりに目が向き、どのように愛するかを考えていないという点は述べた通りですが、それではその愛の対象とはどのようなものがあるのか。見ていきたいと思います。

 

■隣人愛(兄弟愛)
あらゆるタイプの愛の根底にある、最も基本的な愛。あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解。聖書にある「汝のごとく汝の隣人を愛せ」の後半部分とおり、排他性の全くない、人類の連帯意識。

 

キリスト教アガペーと呼ばれるものであり、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」というものですね。これは目指すべき境地というものでしょう。もちろん、根底には自分を愛し、自分を愛しているからこそ、自分の信じている身近な人を愛せる。そして、その人を通して社会を愛する。故に、隣人を愛するという構造になると思います。

 

■母性愛
一方が助けを求め、一方がひたすら与えるという、利他的で自己犠牲に基づく不平等な愛。異性愛と異なり、離れ離れだった二人が一つになるのではなく、一体だった二人が離れ離れになる。

 

これはそのまま、元々は命を産んだ母とその子どもを指しています。ここで重要なのは、やがて離れなければならないということです。母は土地、命の源であり、そこで子どもが安心して育てるよう愛を与え続けますが、いずれは手放さなければなりません。自己愛が強かったり、依存心の強い母は子どもを自立させないようにしますが、これでは健全な発育はありません。母は、子どもが社会に溶け込んでいけるよう、その規範や厳しさ、愛されるには条件が必要だという暗黙の厳しい側面を父親から学ぶようバトンを渡していかなければならないのです。

 

異性愛
他の人と完全に一つに融合したいという願望。隣人愛がベースだが、相互に排他的。自分という存在の本質を愛し、相手の本質と関わる。

 

完全には一つになれない。ただ、生産的な関わりをする。これは親密な関係を築く能力がなければ難しいですね。自己が自己のまま独立した存在としていながらも、限りなく相手と融合しようとする。近づけば、近づくほど違いが分かるので、怖くなる。それでも信じて飛び込めるかどうか。自分を完全に信じていて、愛している(利他的でも利己的でもない)からこそ、できることですね。

 

■自己愛
「汝のごとく汝の隣人を愛せ」の前半部分のとおり、あらゆる愛の前提。自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない。

 

あらゆる愛の前提。これができていないケースが多いように感じます。自分も含め、日本人は過去の敗戦からもたらされる、自信の欠如、ある種のコンプレックスを内面に抱え続けているように思います。戦前は国体、戦後は社会や会社に奉仕してきて(妻は夫と家庭に)、一見すると自由な現代社会においては依存の対象を与えられないため、いやでも自分で向き合わなければならず、多くの人が苦しんでいるように思います。自己愛の根底には社会への、未来への信頼が欠かせません。そして、それは幼少期に原家族で育まれます。

 

社会も、会社も、家庭も、世界も流動的な昨今、寄る辺がない私たちが生きていくには、どうすれば良いのでしょうか。SNSには他人の誇張された生活が喧伝されており嫌でも人と比較してしまいます。これからは、経済的、社会的な成功のみではなく、人生の成功。つまり、いかにして自分の人生を愛するか。これが答えという時代は終わったので、自分の生きてきた時間、これからを信じて愛し、その気持ちを通して似た価値観の人々と繋がり自分の場所を作っていく力が必要なのだと感じます。

 

■神への愛
孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来する点で、人間への愛と変わらない。西洋思想における神への愛は、神の存在を信じるという思考上の体験である一方、東洋思想では瞑想における神との一体感という感覚上の体験である。

 

これは、私も含め日本人にはとっつきにくい概念かも知れません。そもそも西洋人も神は死んだと言っているくらいですし。

 

神は死んだ」とはすべてが無価値化したという意味です。哲学者ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこういった』の中にでてくる有名な言葉です。すべてが無価値化しただけだといまいちイメージしづらいですよね。

19世紀後半、ヨーロッパは科学が進歩し、今までのキリスト教はもはや信仰に値しない存在であるという主張が「神は死んだ」の意味を表すものといわれています。

当時の西洋人にとって、約1000年続いた神への信仰という最高の価値の拠り所と目指すべきものがなくなるので、「神は死んだ」と伝わることは神への信仰という文化、つまり、「なぜ生きているのか」「何を信じて生きていく」という問いそのものが無意味であることを証明してしまうのです

私がここで解釈したのは、神とは「大いなる意志」であり、そこに在る存在。その神は人によってイメージが違う。

 

<父権的な宗教観>

・神は正しく厳格である

・罰や褒美を与えて導いてくれる

・従順でいればわたしをお気に入りの子どもとして選ぶだろう

 

前述した母性愛から、乳房を父親から取り上げられた後の段階ですね。

関係性は「支配と服従」となります。

 

<母権的な価値観>

・神の愛を信じる

・神はわたしが無力でも罪人でも変わらず愛するだろう

・わたしの身に何が起ころうと、わたしを救い許してくれるだろう

・他の子どもをひいきすることは決して無いだろう

 

大地に還りたい、子宮に還りたいという願望ですね。

関係性は母性愛の保護と依存となります。

 

本当に宗教的な人、つまり成熟した人は

 

①神に救いを求めません。父や母に甘えるようには神を愛しません。

②神について語りません。神について何も知らないと知っているからです。

③神は「人間が望むもの(愛、真実、正義など)」のシンボルだと理解しています。

④「神」がかたどる全ての原理を信仰します。つまり、この世界全てを愛し、また愛や真理ついて考え、正義を生きます。

 

神を愛するということは、愛する能力をできる限り伸ばしたいと願うことであり「神」が象徴する愛や真実や正義を望むことと言えそうです。