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波があります

最近、体調の波があります。どうやら朝方が鬱で夜に躁になっているようです。

ACからの回復途上にありますが、双極性障害の可能性もあると心療内科では言われました。確かに、年周期や三ヶ月周期などで波が入れ替わることがあり、2つの人格があるように感じていた時もあります。

 

現在は、双極性障害の混合期ではと言われて少しショックでした。

 

カウンセリングを経て、過去の記憶や事実が整理された今、脳がデリケートな状態なのでダメージや刺激を受けやすいです。慌ただしいIT関連の仕事に身を置いていますが、本当は自然や動物を相手にした実のある仕事の方が向いているのかも知れません。

 

ゆっくり考えながらも、行動していきたいと思います。

体調

最近、体調の波があります。ACのカウンセリングを始めて7ヵ月、いろいろな気づき、記憶の再整理ができてきました。少し急いでしまった時もあるかも知れません。本も20冊ほど、AC関係のものや物語セラピー、愛着障害毒親共依存など色々と勉強しました。AAに1度参加したのも貴重な経験でした。

 

今までの鎧、過去の自分をある意味リセットする過程で自己肯定感が大幅に低下して、ふわふわしています。螺旋階段のように思考がぐるぐるします。

 

一番大事なのは、これからどうしたいか。そのためには自分を大切にして、感情に耳を傾けること。今まで我慢してきた、鈍麻させてきた感情を成長させること。

 

これが一番重要で、一番難しい。

生活

利他的なようで利己的

相手の期待しすぎたり、依存してしまうと関係性はいつか歪み、壊れてしまう。そう思います。一方で、自我が確立できておらず意志が強くない人と、依存心が強い人が結びつくと共依存の関係になりやすいように感じます。

 

この場合、依存心が強い相手に合わせている側は、自らを利他的だと思い、献身的に付き合う自分に安心します。空っぽになってしまっていた自分と向き合わずに相手のもたらす問題と向き合えば良いので、ある意味楽なのです。しかし、利他的であるように見えてこの振る舞いはとても利己的です。相手がこうだから、相手のせいで自分はこうしているのであるという免罪符で生きられる。

 

まるで、依存してくる相手を自分の関係性に依存しているような状態。

このような生活はお互い苦しく、離れられず、お互いを縛り付けるでしょう。

 

記憶の整理

脳の疲れ

少しずつ色々な事が脳内で再整理されていっています。忘れていたはずのこと、操作されていたこと。父親のアルコール依存症をきっかけに機能不全家族となり、ACに繋がっていったとばかり思い込んでいましたがさらに2つの要素が隠されていたことが近頃分かってきました。

 

・母との愛着関係

・母と祖母の不仲

 

恐らく、無意識の内に母から記憶や認識を操作されていたのだと思いますが、私は優しい子・良い子だと言われ続けて育ち、そうならないといけないし、そうなってきたと思います。これは、母の父、祖父のようになって欲しいという母の願望だったように感じます。過干渉というよりは、依存心が強い母の受け皿になってしまっていたのかなと思います。

 

また、母は父の故郷での二世帯での生活、田舎での生活が嫌だったのだと思います。出身地である都会との暮らしの違い、得意でない家事や父方の祖母との関係が煩わしく、子供を緩衝材に使ったり父にさまざまなプレッシャーをかけていたようです。恐らく、そこまで自覚なく行っていたのだと思います。

 

今更誰かのせいにすることはできませんが、ACの背景にある隠されていたストーリーが明らかになり過去がグラグラと揺れています。恐らく、10歳くらいまでの愛着関係の移行(母親 -> 父親へのバトンタッチ)がうまくいかない状態で、機能不全家族となり強制的に母親との愛着関係も断絶することとなり与えられた役割を担わなければならなかったのだと思います。

今思うと、小学校の高学年には一時期不登校になったり、病気をしがちになったりしました。生活・世界が一変してしまったのだと、気付いていたのでしょう。それから、家庭内の自分とその世界にいる自分が完全に分断されてしまい、今までの自分(インナーチャイルド)が置き去りにされて、自己乖離がずっと続いてきたのだと思います。

 

全てが整理されていっており、一方で脳の抵抗もあり、グラグラした足元の上で日常を送っています。何が本当で、何が本当でないのか

愛するということ④

②愛の対象

人々はどうすれば愛されるかばかりに目が向き、どのように愛するかを考えていないという点は述べた通りですが、それではその愛の対象とはどのようなものがあるのか。見ていきたいと思います。

 

■隣人愛(兄弟愛)
あらゆるタイプの愛の根底にある、最も基本的な愛。あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解。聖書にある「汝のごとく汝の隣人を愛せ」の後半部分とおり、排他性の全くない、人類の連帯意識。

 

キリスト教アガペーと呼ばれるものであり、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」というものですね。これは目指すべき境地というものでしょう。もちろん、根底には自分を愛し、自分を愛しているからこそ、自分の信じている身近な人を愛せる。そして、その人を通して社会を愛する。故に、隣人を愛するという構造になると思います。

 

■母性愛
一方が助けを求め、一方がひたすら与えるという、利他的で自己犠牲に基づく不平等な愛。異性愛と異なり、離れ離れだった二人が一つになるのではなく、一体だった二人が離れ離れになる。

 

これはそのまま、元々は命を産んだ母とその子どもを指しています。ここで重要なのは、やがて離れなければならないということです。母は土地、命の源であり、そこで子どもが安心して育てるよう愛を与え続けますが、いずれは手放さなければなりません。自己愛が強かったり、依存心の強い母は子どもを自立させないようにしますが、これでは健全な発育はありません。母は、子どもが社会に溶け込んでいけるよう、その規範や厳しさ、愛されるには条件が必要だという暗黙の厳しい側面を父親から学ぶようバトンを渡していかなければならないのです。

 

異性愛
他の人と完全に一つに融合したいという願望。隣人愛がベースだが、相互に排他的。自分という存在の本質を愛し、相手の本質と関わる。

 

完全には一つになれない。ただ、生産的な関わりをする。これは親密な関係を築く能力がなければ難しいですね。自己が自己のまま独立した存在としていながらも、限りなく相手と融合しようとする。近づけば、近づくほど違いが分かるので、怖くなる。それでも信じて飛び込めるかどうか。自分を完全に信じていて、愛している(利他的でも利己的でもない)からこそ、できることですね。

 

■自己愛
「汝のごとく汝の隣人を愛せ」の前半部分のとおり、あらゆる愛の前提。自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない。

 

あらゆる愛の前提。これができていないケースが多いように感じます。自分も含め、日本人は過去の敗戦からもたらされる、自信の欠如、ある種のコンプレックスを内面に抱え続けているように思います。戦前は国体、戦後は社会や会社に奉仕してきて(妻は夫と家庭に)、一見すると自由な現代社会においては依存の対象を与えられないため、いやでも自分で向き合わなければならず、多くの人が苦しんでいるように思います。自己愛の根底には社会への、未来への信頼が欠かせません。そして、それは幼少期に原家族で育まれます。

 

社会も、会社も、家庭も、世界も流動的な昨今、寄る辺がない私たちが生きていくには、どうすれば良いのでしょうか。SNSには他人の誇張された生活が喧伝されており嫌でも人と比較してしまいます。これからは、経済的、社会的な成功のみではなく、人生の成功。つまり、いかにして自分の人生を愛するか。これが答えという時代は終わったので、自分の生きてきた時間、これからを信じて愛し、その気持ちを通して似た価値観の人々と繋がり自分の場所を作っていく力が必要なのだと感じます。

 

■神への愛
孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来する点で、人間への愛と変わらない。西洋思想における神への愛は、神の存在を信じるという思考上の体験である一方、東洋思想では瞑想における神との一体感という感覚上の体験である。

 

これは、私も含め日本人にはとっつきにくい概念かも知れません。そもそも西洋人も神は死んだと言っているくらいですし。

 

神は死んだ」とはすべてが無価値化したという意味です。哲学者ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこういった』の中にでてくる有名な言葉です。すべてが無価値化しただけだといまいちイメージしづらいですよね。

19世紀後半、ヨーロッパは科学が進歩し、今までのキリスト教はもはや信仰に値しない存在であるという主張が「神は死んだ」の意味を表すものといわれています。

当時の西洋人にとって、約1000年続いた神への信仰という最高の価値の拠り所と目指すべきものがなくなるので、「神は死んだ」と伝わることは神への信仰という文化、つまり、「なぜ生きているのか」「何を信じて生きていく」という問いそのものが無意味であることを証明してしまうのです

私がここで解釈したのは、神とは「大いなる意志」であり、そこに在る存在。その神は人によってイメージが違う。

 

<父権的な宗教観>

・神は正しく厳格である

・罰や褒美を与えて導いてくれる

・従順でいればわたしをお気に入りの子どもとして選ぶだろう

 

前述した母性愛から、乳房を父親から取り上げられた後の段階ですね。

関係性は「支配と服従」となります。

 

<母権的な価値観>

・神の愛を信じる

・神はわたしが無力でも罪人でも変わらず愛するだろう

・わたしの身に何が起ころうと、わたしを救い許してくれるだろう

・他の子どもをひいきすることは決して無いだろう

 

大地に還りたい、子宮に還りたいという願望ですね。

関係性は母性愛の保護と依存となります。

 

本当に宗教的な人、つまり成熟した人は

 

①神に救いを求めません。父や母に甘えるようには神を愛しません。

②神について語りません。神について何も知らないと知っているからです。

③神は「人間が望むもの(愛、真実、正義など)」のシンボルだと理解しています。

④「神」がかたどる全ての原理を信仰します。つまり、この世界全てを愛し、また愛や真理ついて考え、正義を生きます。

 

神を愛するということは、愛する能力をできる限り伸ばしたいと願うことであり「神」が象徴する愛や真実や正義を望むことと言えそうです。

友人の転職

友人が転職した

元同僚の友人が転職した。前の会社に誘ったのは私で3年ほど一緒に働いた。実は、その前の会社でも同僚だった。友人は前の会社(私の今の勤め先)では上司とソリが合わず大きなストレスを抱えていた。収入は非常に高かったが、不満に耐えきれず1月に転職した。

 

定期的に話をしているが、新しい会社での仕事も軌道に乗り始めたらしい。年収もアップして部下もいるとのこと。また、副業もチャレンジしていて「動いて変わった人」になっていた。実は、前の会社(私の今の勤め先)に入った当初もやる気に満ち溢れていて、しばらくするとレジスタンスになっていったので少し心配しているが、どうやら大丈夫そうだ。

 

お金も増え、家族も大切にして暮らしている様子を聞いて、少し羨ましくなった。今の私はやりたいことはたくさんあるが、動くことを脳が拒否しているイメージ。「ひどいしっぺ返しを喰らうぞ」という呪縛に囚われている。今は、目の前の仕事をなんとか取り組みながらゆっくり自分のペースでやりたいことをして、感情を生き返しながら生きていこうと思った。すぐに無理して何かを掲げがちだが、できることを繰り返していくことで回復していくと信じている。

愛するということ③

印象に残ったフレーズ

 

■人は孤独から逃れるために、集団に同調する。しかしそこには、人間同士の真の一体感はない。完全な答えは、他者との融合、すなわち「愛」である。

まるで、ヱヴァンゲリヲン人類補完計画

 

■成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったまま、二人が一人になり、しかも二人であり続けるというパラドクスが起こる。

ただただ、生産的な活動。魂の融合

 

■愛とは、 愛する者を能動的に尊重し、その生命と成長を気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。また、愛とは、特定の人間に対する関係ではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度や方向性のことである。

能動的に(自らが主体者として)と、成長というところが重要ですね。成熟に至るプロセス。1人を愛することを介して、世界を愛する。1人の存在するこの世界をも大切にする

 

■愛するためには、自分自身が成熟した人格と愛を生み出せる能力を備えなければならない。自分自身の人生が充実していなければならない。そうでないと、自分自身を相手に与えるのが怖く、従って愛する勇気も持てない。

まずは自分を愛すること、自信を持つこと、信頼すること。それで初めて我が身を投げ出せる。利己的でも、利他的でもなくただそこにあるのは生産的な活動